RECS通信

 

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「パプアニューギニア」からの発想(橋本)

 
 パプアニューギニアは、約46万平方キロ(日本全土+北海道程度)の国土に約500万人が住む南太平洋の島国である。メラネシアに属するがポリネシア、ミクロネシアも合わせて、国土・面積・人口ともにオセアニア最大の島嶼国(最大の国オーストラリアは最小の大陸)である。その中に約800の言語と部族を擁するという驚くべき国であり、まさに人類学の宝庫と言える。近代に入ってから多くの人類学者がパプアニューギニアをフィールドとして研究しているのも当然のことで、他の国ならば数100年あるいはそれ以上前に消滅した原始部族社会が目の前にあるのである。1980年代になって新たに、それまで知られていなかった部族が、あたかも蝶の新種のように「発見」されたという。

 今でも部族間の抗争が絶えず(とくに高地の部族民同士の)、時々新聞等に報道されたりする。伝統的に男の仕事は闘うことなのだ。その象徴としてペイバック(payback)という社会慣習がある。やられたらやり返す、という仕返しである。これを「原始的」の一言で片付けるのは容易だが、その精神的根源は決して浅いものではないようである。

 ペイバックの対とも言える概念にポトラッチ(potlatch)がある。北米大陸の北西部の、いわゆるアメリカ・インディアンの種族に見られる習慣とされるが、メラネシア等にも同様の習慣が観察されている。豊かな者が機会を捉えて自分の所有物同じ部族民に振る舞うというのが原型で、富の再分配の仕組みであり、リーダー(いわゆるビッグマン)足る者として権威を表現する慣習として説明される。ポトラッチには、他者に対して権威を見せつける、あるいは富に象徴される力を誇示するという意味合いがあるようだが、それが他部族に向けられると複雑な意味合いを持つ。

 このような機微を面白おかしく描いたのが筒井康隆氏の「ポトラッチ戦争」である。ある部族が他部族に多大な贈り物をする。それは、自らの善意を示し攻撃の意図がないことを伝える方法であると同時に、自らの力を誇示する含みもある。贈り物を受け取ったほうは、自らの善意を示すためにお返しをしなければならないと感じるとともに、力を誇示する相手の真意をいぶかって、自らも力を誇示しておく必要を感じる。結果は、より多大な贈り物をお返しすることとなる。これが続くと、贈り物によって相手を破綻させようとする闘いの趣となり、これはペイバックにも似たポトラッチの本質的意味にも通じる。

 ポトラッチを、形を変えた闘いの方法として、ペイバックとの共通を論じることもできるだろう。しかし私は、「ポトラッチ戦争」で描かれているような心理的な動きの中に、ペイバックとのより重要な共通を感じる。やられっぱなしでは済まない、ということは少し大げさに言うと、尊厳を傷つけられたままでは生きてはいけない、ということであろう。多大な贈り物をもらって何もしないでいては、心の負い目を感じ続ける。共通しているのは、いわば「心の帳尻合わせ」の必要性である。

 ペイバックはすぐにできる場合もあるが、心の帳尻をすぐには合わせられない場合もある。圧倒的な力の前に屈したときは、ペイバックするための力を蓄える時間が必要である。ペイバックする相手を捜し出さなくてはいけない場合もあるだろう。そのような場合、心の帳尻を「書き留め」忘れないようにする必要があり、それを木に刻む。これがトーテムポールの一つの役割である、という説明がある。私がパプアニューギニアの首都ポートモレスビーの博物館で見たポールには、確かにペイバックする相手の首をつるすためと思わしき鉤が一番上に付いていた。
 ロックフェラー財団を作ったジョン・O・ロックフェラーの同名の息子は、メラネシアで多くのトーテムポールを収集し、その成果はニューヨークのメトロポリタン美術館の一展示室で目の当たりにすることができる。これらのトーテムポールは、当然のことながら多額の金を払って、多くの部族から譲り受けてきたに違いない。その中には、心の帳尻の役割を持つポールもあっただろう。心の帳尻を合わせるのに必要なだけの見返りを与えたので、各部族はそのポールをロックフェラーに譲り渡したと考えるべきかもしれない。ロックフェラーの息子のメラネシアでの失踪について、氏の存在自らがペイバックの対象とされた可能性を指摘する説があるのも当然のことと思える。

 メラネシアにはもう一つカーゴ・カルト(積荷信仰)と呼ばれるものがあり、第2次世界大戦以降文化人類学の謎の一つとされている。その原型は、部族の祖先あるいは外部の権力者が船あるいは飛行機一杯の積荷を自分たちに約束したという預言者へのお告げである。カルトには、外部からの影響によって社会に大きな変化が引き起こされるとき部族民の精神の安定を図る役割がある、とされている。原始社会にある部族が、19世紀あるいは20世紀になって突然、西洋の圧倒的な物質的豊かさに出会ったとき、部族民の驚きは想像を絶するものだったであろう。西洋の様々な商品、例えば衣類や道具類、缶詰、更には自動車や電化製品に出会ったとき、たとえそれらの一部を贈られたとしても、とてもそれに見合ったお返しはできない。ましてや、それらの富によって象徴される力に対抗することはできない。このような苦しい心の負い目を感じる中で、部族民の尊厳を取り戻すための説明がカーゴ・カルトなのかもしれない。恐らくカーゴ・カルトは、心の帳尻が合わないときの「納得の体系」なのである。

 さて、ペイバックやポトラッチ、あるいはカーゴ・カルトに包含されていると見られる「心の帳尻合わせ」を必要とする感覚について考えたい。人を殴ったら殴り返されるかもしれない、ということは誰でもわかる。殴り返されなくても、どこかで仕返しを受けるかもしれないと感じる。自然を破壊してもすぐには何の影響を受けないとしても、どこかでしっぺ返しを受けるかもしれない、という感性があってもおかしくない。

 ショートショートの名手とされた星新一氏の「おーい、でてこい」という作品がある。ある日、人類の目の前に深い穴が出現する。最初はいぶかり「おーい、出てこい」と呼び掛ける。一人が小石を投げ入れ、そのうち多くの人がゴミを捨て始める。核廃棄物も含めて世の中の不都合なものを穴に投げ入れて解決するようになる。しばらくして、どこからか「おーい、出てこい」という声が聞こえ、天から小石が降ってくるが誰も気付かない、というわかりやすいファンタジーである。

 自分の取り巻くすべてを環境と表現すると、環境が自分を育み、また自分のいかなる小さな行為も環境に影響を与えずには済まず、その影響がまた自分に返ってくることとなる。その影響の連鎖を感覚的に捉えることは、上に述べた心の帳尻合わせに通じるものがあると私は考える。これは一種の宇宙観であり、自然界のすべてのモノの中に魂を見出すアニミズムと共通するものだろう。

 私はこういう感覚こそ、今後の世界にとって極めて大切だと思う。こういう感覚を持っている普通の人は、世界的には今でも少なくないはずであり、かつてはもっと多くの人がもっと強く持っていたのではないか。情報通信技術の発達・普及によって失われてきたのは、まさにこのような感覚だと私は思っている。

 私は今年(2005年)の5月より、国際協力機構によるパプアニューギニアに対する技術協力プロジェクトに携わっている。首都ポートモレスビーの郊外には、70ヶ所以上もの、いわゆる部族民の居住区(セトルメントと呼ばれている)が存在し、首都人口の40%近い10数万人が居住している。これら居住区との関連において、首都の居住環境や治安の悪化が論じられている。セトルメントのコミュニティ開発のため、住民、NGO、行政が協力してパイロット事業を計画し実施することを通じて能力向上を図るのがプロジェクトの目的である。セトルメント開発をテコとして、首都圏のより良い都市化を導く可能性を追求するとともに、現地の人たちとの交流を通じて上に述べたような問題意識を高めることは、私の個人的課題である。
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